スリランカのライス&カリーは、訪れる場所が変われば、一つとして同じ味のものに出会うことはありません。
豆や野菜、魚、肉などを組み合わせ、ひと皿の中で混ぜながら食べるその料理は、日常の中で生まれる小さな変化の集まりです。
香辛料の焙煎の時間、火加減、ココナッツミルクの濃さ、塩を指先でつまむ量。
どれも目に見えないほどの違いですが、出来上がったときの香りと味わいには確かな差があります。
料理人が変われば、味も変わる。
それは単なる技術の差というよりも、ひとりの人間の生活と体温が反映された結果なのだと思います。
スリランカでは、料理の手順を細かく数値で記すことはあまりなく、味は家庭や経験の中で受け継がれてきました。
だからこそ、同じメニューであっても、作り手の記憶や感覚の違いがそのまま皿の上に現れます。

コロンボの食堂で感じた変化
コロナ禍の前、私はコロンボの中心部にある小さな食堂をよく訪れていました。
昼どきになると地元の会社員で席が埋まり、天井の扇風機が絶えず回っていました。
チキンカレー、豆のカレー、オクラの炒めもの、そして甘みのあるココナッツサンボル。
一口ごとに香辛料の層が変化し、混ぜるたびに新しい味が生まれるような一皿でした。
数年ぶりに再訪したとき、店の外観はそのままでしたが、皿の上の世界は別物になっていました。
カレーはやや油が多く、香りが軽く感じられました。
食後の余韻も以前とは違い、どこか輪郭のはっきりした味でした。
会計のときに店主に尋ねると、「父が引退して、今は息子が作っている」と教えてくれました。
料理人が変わっただけで、同じメニューがまったく別のものになる。
それは珍しいことではありません。
スリランカでは、家庭でも日によって味が変わります。
湿度やスパイスの状態によって香りが変化し、同じ分量でも味の印象が異なるのです。
「今日は少し辛いね」と言いながら笑い合う、それが日常の風景として受け入れられています。
この国のカレーには、「昨日と同じであること」を求める感覚があまりありません。
変化することが自然であり、それを受け入れる文化が根づいています。
だからこそ、旅人が「前と違う」と感じるのは、ある意味で当然のことなのです。
ニゴンボの海辺で失われた味
スリランカを再訪したもう一つの目的は、ニゴンボの海辺にあった小さなレストランでした。
地元の人から「魚カレーが美味しい」と聞いて通っていたその店は、観光客にも人気がありました。
白身魚をライムとココナッツミルクで軽く煮込み、マスタードシードとターメリックで仕上げる。
その味は海の近くらしい軽やかさがあり、食べたあとに残る塩気が心地よいものでした。
しかし、コロナ明けに訪れたとき、その店はすでに閉まっていました。
看板が外され、入口には「For Rent」と書かれた紙が貼られていました。
地元の人の話では、観光客が減り、再開の目処が立たなかったとのことです。
厨房で魚を煮ていた香りも、あの独特の静けさも、もうありません。
スリランカでは、料理の味が人とともに存在しています。
その人が厨房を離れれば、味も同時に消えてしまいます。
レシピやデータでは残せない、感覚の積み重ねが料理の本質を形づくっているからです。
この国では「同じ料理を再現する」よりも、「そのとき最も良い状態で作る」ことが重視されます。
そうした考え方は、変化を受け入れる文化として、食の根底にあります。

一度きりの味という記憶
スリランカのライスカレーは、標準化や大量生産には向かない料理です。
同じ材料を使っても、仕上がりが一定にはなりません。
それは欠点ではなく、むしろこの国の料理を豊かにしている要素です。
味は再現されるものではなく、出会うものとして存在しています。
日本では「再現性」が重視されます。
同じ味、同じ品質を保つことが信頼につながります。
一方、スリランカでは、日々の違いをそのまま受け入れる。
気候、体調、材料の状態、そのすべてが今日の味を作ると考えられています。
旅をしていると、かつての味にもう一度出会いたいと思うことがあります。
けれどもスリランカでは、それは叶わないことも多いです。
それでも、失われた味が意味を失うわけではありません。
その味を記憶していること自体が、旅の一部になっていきます。
料理人が変わることで味が変化するという事実は、この国の料理が人の手によって生きていることを示しています。
香辛料の香り、ココナッツの甘み、火の加減。
どれも人の感覚がつくり出す「一度きりの味」です。
スリランカのライスカレーを食べるとき、私はいつも思います。
この一皿の味は、今日しかない。
その瞬間の空気とともに過ぎ去っていくもの。
だからこそ、もう一度食べたいという記憶が生まれるのだと感じます。
料理人が替わり、店が閉じ、味が変わっても、スリランカの食卓には変わらない風景があります。
人がいて、スパイスの香りが立ち、手でご飯を混ぜる音が聞こえる。
その光景が続く限り、この国の味は形を変えながらも生き続けていくのだと思います。
